第1編 黎明期[1549年(天文18)〜1885年(明治18)]

第1章 キリスト教の世界伝道

 キリスト教の日本への伝播には、大別して二つのルートがる。一つは、ローマ・カソリック教(天主教)のフランシスコ・ザヴィエルその他による伝道であり、もう一つは、プロテスタント教(新教)のアメリカ経由の外国伝道会覇権の宣教師による伝道である。この二つ以外にも幕末のロシア正教のニコライによる函館からスタートする日本伝道がある。
 さて、キリスト教がキリストの証人たちを通して世界に伝播したのは、キリストの霊である聖霊が彼らに働きかけたという他はない。イエスの直弟子たちを初め、70人の弟子たちや異邦人伝道者を以て任ずるパウロやその同労者たちは、ある時は聖霊に禁じられ、ある時は聖霊に動かされて、当時の世界である地中海一体に伝導している。イエスは12人弟子たちとの最後の晩餐の時に、これから父のみもとに行くことを父にお願いして助け主としての聖霊を送っていただくから決して孤児とはしないと約束された。丁度、イエスの死よりの復活から数えて50日目に約束の聖霊が下り、その働きによって弟子達はすっかり生まれ変わり、「十字架にかかり復活されたナザレのイエスこそ真の救主である」と迫害を恐れず伝導した結果、イエスをキリスト(救主)と信ずる3000人からの群れが誕生し、初期のキリスト教会となる。この様子を使徒パウロの同労者の医者ルカが記録したものが使徒行伝(使徒言行録)であり、別名、聖霊行伝とか聖霊言行録とか呼ばれるものである。
 ルカの記録によると、第二回伝道旅行では第一回同様小アジアがパウロの伝道計画の中に入っていたのに、アジア州で伝導することを聖霊に禁じられ、フルギア・ガラテア地方を通り、ビテニア州に入ろうとしたが、イエスの御霊が又もや阻んだので、ミシア地方を通って海港トロアスに下ったとある。その夜、パウロが見た幻に一人のマケドニア人(ヨーロッパ人)が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。更に、パウロはこの幻を見て計画になかったマケドニア行きを決断した。なぜならマケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がパウロを召されているのだと確信するに至ったからであると。
 かくして、ヨーロッパ伝道の端緒が開けるのである。キリスト教は幾多の大小の迫害をくぐり抜けて、ローマ帝国に浸透して行き、遂にコンスタンチノープルを首都に、ギリシャ正教となり、西ローマ帝国はローマを首都に、ローマ・カソリック教となる。このローマ・カソリック教会から宗教改革によってプロテスタント教が生まれ、カソリック教会側の反宗教改革で、イグナティウス・ロヨラとフランシスコ・ザヴィエルがイエズス教団を組織してローマ・カソリック教会内の改革を進めると同時に、コロンブスらの新大陸発見に促されて、海外伝道を積極的に行うようになる。もともと、インド域が、西インド諸島の発見につながったこともあり、中南米大陸への伝道と同様に登用伝道が開始される。以前にも、陸路でインドや中国にシリアはキリスト教がもたらされたこともあるが、この度は、ローマ・カソリック教会がインド、フィリッピン、中国、日本と海路で来て伝来している。

第1節 ローマ・カソリック教の日本伝道

ザヴィエルの来日と日本伝道

 次にフランシスコ・ザヴィエルによる日本伝道の経緯に触れよう。大航海時代と言われる十五世紀末の1498年5月に、スペイン人ヴァスコダ・ガマはアフリカの最南端の喜望峰を回ってインドのカルカッタに到着している。それ以来、1500年にはフランシスコ派の宣教師9人、1503年にはドミニコ派の宣教師数名がインドのゴアに到着した。腐敗し切ったポルトガル人社会にやがてリヴァイヴァルが起きる。ここを根拠地に彼は六年間に亘ってインドその他の伝道に奔走している。その間、ヤジローはインドのゴアに行かされ、神学校で学び洗礼を受けている。このヤジローを案内人にしたザヴィエルがトルレス、フェルナンデスの二人の宣教師を伴ってゴアを発ったのは1549年の受難週のことであった。途中マラッカに立ち寄り、更に準備に日を費やし6月24日に出発して、目的地日本の鹿児島に着いたのは8月15日であった。最初は好意を以て藩主島津貴久に迎えられたが、彼らのなした仏教批判と貿易の進展のなさから一年で伝道出来なくなった。その後、ザヴィエルは平戸、博多、山口と伝道してから念願の京都へ向かったが、応仁の乱後の後遺症と度重なる兵火のため荒廃した社会に対して無力と化した天皇に伝道(布教)の認可を受けることも出来ず、あきらめて堺、平戸そして山口へ引き返した。そこではインドの副王や司教の手紙に添えて献上品を贈り伝道の許可を得て、わずかに2ヶ月間に500人の信徒を導いている。更に豊後の領主大友義鎮からの要請で府内(大分)に赴き、許可を得ての伝道で大きな成果を上げている。このように日本伝道2年3ヶ月で1000人に迫る信者が生まれている。インドに較べ日本の伝道が困難であることに気付き、日本に一番影響力のある中国文化を理解するために中国伝道を試みようとするが病気のため志半ばで天に召される。なお、彼は今後の日本伝道について卓越した意見を残している。「日本人は知的で、礼節を重んじ、伝道には非常な努力を要するが、一旦信じると永く伝わるので宣教師の人選には慎重を要する。つまり学識があり、道徳堅固で、経験があり、身体強健で、ポルトガル語かスペイン語に通じた第一級の人物ということになる」と。また、通商にも目を向けるべきことを指摘している。かくして、ザヴィエル亡き後も、優れた宣教師たちの努力によって1577年には全国で、信徒数十万人に達している。

ローマ・カソリック教の迫害と鎖国

 さて、いんどにあるイエズス会のゴア教区からの覇権宣教師として、ヴィレラ、フロイス、アルメイダ、カブラル、オルガンティーノ、ヴァリニアーノ等が日本に次々にやって来て、時の権力者である織田信長に、豊臣秀吉に、徳川家康に近付き布教の許可を得ようとするが、一時的には許可を得ても又禁ぜられることの繰り返しであった。信長は比叡山の僧兵を抑え、一向一揆を圧迫する手段として、キリシタンを利用する。秀吉は最初の中は、貿易での大きな利益を考え、キリシタンの布教を大目に見ているが、1587年7月25日に九州の勢力を完全に鎮圧すると途端に、キリシタン・バテレン(宣教師)の国外退去を命ずる。その上、キリシタン大名の高山右近に、キリシタンの信仰を捨てるか、知行を捨てるかを迫り、遂には追放してしまう。この時に出した追放令は諸大名を集めてなされたもので、次の5ヶ條から成っている。

(1)、日本は神国である。キリシタン国から邪法を伝えたのは怪しからぬ。
(2)、彼らが諸国の人民を帰依させ、神社、仏閣を破壊させたのは、前代未聞である。領主たちは一時その土地を預かっているのであって、何事でも勝手にふるまう権利を持つのではない。天下の法律に従わなくてなはらぬ。
(3)、神父はその知恵の法を以て自由に信者を持ってよいと考えていると、右の通り日本の仏法を破壊する。だから神父らを日本の地に置かないことにする。神父らは今日より20日以内に用意して帰国すべきである。この期間に神父らに害を加えれば処罰されるであろう。
(4)、黒船は商売のために来るのであるから、別である。貿易はやってよい。
(5)、今後、仏法のさまたげをしないものは、商人でも何でも、キリシタンの国から自由にやってくるように。

 これ以外にも、なぜそんなに熱心に布教し、改宗を強制するのかとか、なぜ人間にとって有用な牛馬を食うのかとか、なぜ日本人を買って奴隷にするのかと副管区長クエリヨに使いを出して答えさせている。これらの質問の背後には、キリシタンの日本征服の野望に対する懸念が隠されている。言ってみれば、折角築いた支配者としての地位を奪われはしないのかとの心配である。更に、耐えて待つことで天下餅がこがり込んで来た観のある徳川家康は、秀吉のやり方を踏襲して、1613年12月23日に彼の政治顧問格の南禅寺の金地院崇伝にキリシタン禁令を書かせて公表している。要約すると、

 「それ日本は元これ神国なり。……ここに吉利支丹の徒党、たまたま日本に来たり、ただに商船を渡して資材を投じ、みだりに邪法を弘めて正宗をまどわし、以て城中の政号を改め、己が者となさぬと欲す。これ大禍の萌しなり。利せずんばあるべからず。……かの伴天連達の徒党はみなくだんの政序に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を残し、善を損じ、刑人あるを見れば、すなわち駆けつけ、みずから拝し、みずから礼し、これを以て宗旨の本義となす。邪法にあらずして何ぞや、じつに神敵、仏敵なり、いそいで禁ぜざれば、後世かならず、国家の患となろう。これ政治の掌にあたって、これを制すれば、かえって天譴をこうむらん。」(岩生成一)

である。この禁令に秀忠(2代将軍)の朱印を押して即日、発布させ、同時に京都の天主堂を破壊させ、イエズス会の宣教師を長崎経由で帰国させ、信長は俵に入れしばり上げ、四条河原に積み上げ、転向しない時には、焼き殺した。その他の領内でも、領主主導型で拷問が行われた。かくして3代将軍家光の時に、1629年にはキリシタン摘発のために踏み絵がはじまり、1633年には外国への渡航は勿論のこと、外国に5年以上滞在する日本人の帰国も禁じた(第1次鎖国令)。そこへ、予想もしていなかった島原の乱が起きる。幕府によるキリシタン迫害が一種の社会的な構造となって、下級官吏の横暴さを産み、延いては村民を怒らせ、代官殺しにエスカレートし、一揆となり、領主の島原城が包囲され危機に瀕する。そこへ、天草の一揆が合流して、島原の乱へと変質したものである。小西行長の遺臣の子、天草四郎時貞が若冠の身ながら擁されて終末的信仰で3万数千の老若男女が1つにまとまり一旦廃城となった原城に立て籠もるが、兵糧攻めに合い、5ヶ月で尽きて、絶対優勢を誇る松平伊豆守信綱に皆殺しにされてしまう。幕府から鎮圧のために派遣された板倉重昌は攻撃に失敗して戦死している。この時のことが尾を引いて、高梁(備中松山)でのキリスト教迫害に繋がって来る。この島原の乱が鎖国を正当化する方向に働いていったことは当然の歴史の流れである。翌年の1639年にはポルトガル人の追放、ポルトガル船来航禁止(宣教師の支援の科で)を敷く形で幕府は鎖国を完結させている。オランダ商人はライバルがいなくなり、日本との貿易を一手に握って喜んだものの、今までなかった条件を付けられ大きな譲歩を余儀なくされている。1640年には、平戸にあるオランダ商館の破壊が命ぜられる。ポルトガルやスペインが貿易と布教を絡ませるのが常套手段だったのに比して、合理主義精神で徹底して、重商主義の立場に立ってきた新教国オランダも、キリスト教国であることに変わりはないということを衝かれている。曰く、オランダ人もキリスト教徒ではないか。その証拠にはオランダ商館の礎石にヤソ元号が記されている。これからは、聖日礼拝を守ることも禁止し、商館長の任期も1年として欲しいと注文をつけている。その翌年1641年には長崎への移転を命じられ、爾来、200余年の間、長崎の出島に閉じ込められる時代がつづく。嘉永5年の浦賀へのペリー来航までの217年間に徳川幕府は幕藩体制を取りながら、外様大名の力を弱めるため参勤交代制による莫大な費用の浪費と江戸屋敷へ大名の妻子を住まわせることで人質として使うことで、幕府への裏切り防止に備えた。又一種の隠蔽制による各藩の落度探しとそれによる徳川家の強大化を絶えず計っている。更に幕府は精神的なバックボーンを中国の儒教に求め、封建制度を確立した。つまり、士農工商の4つの階級(イン・カースト)といずれにも属さない被差別階級(アウト・カースト)を創ることによって巧妙に武士階級を守ると同時に、農民階級の誇りをも守っている。このように支配階級の平和を守るためにのみ鎖国政策が維持され、一般庶民の知る権利と被差別の民の人権の切り捨てられたのが日本の近世であったと言える。しかし、日本が泰平の夢をむさぼっていた時代は世に言う大航海の時代でもあり、鎖国が破れるのは最早、時間の問題であった。

第2節 プロテスタント・ミッションの来日と日本伝道

各ミッションの来日

 G・H・フルベッキの日本プロテスタント伝道史によると、公式に日本に派遣された最初の宣教師はJ・リギンズ師とC・M・ウィリアムズ師であった。2人ともアメリカ監督教会の中国ミッションのメンバーで、既に現地である中国で3000年間の伝道経験を積み、新しく設置された・・・

以下、不定期で更新していきます。